【戦艦大和の沈没地点での慰霊】


東シナ海北緯30度43分17秒,東経128度04分00秒の
戦艦大和の沈没地点に慰霊と献花に出かけました。
大和沈没時間の昭和20年04月07日14時25分当時と
同じく小雨が降っていました。合掌!
【2005年6月17日〜6月20日訪問】

昭和16年10月30日宿毛湾沖を公試運転中


(空母ヨークタウン機が撮影した戦艦大和の最後)


御遺族と戦友


「海ゆかば」の曲で海軍旗の掲揚


自衛隊機から大和沈没地点に発炎筒
が投下されました。



正確な場所に発炎筒が投下され沈没地点を
照らしています。
ここの水深345mに
戦艦大和が横たわっています。



大和沈没地点に献花する御遺族






「ただいま参りました。永久に安らかなれ」と
手旗信号を送るもと大和乗組員戸田文男さん


海軍兵学校ゆかりの品覚寺の僧侶による
追悼法要がおこなわれました。



戦艦大和は北緯30度43分,東経128度04分,
長崎県男女群島女島の南方176キロの水深345メートルの
傾斜した崖状の海底に爆裂して二つに折れたまま
横たわっています。

【紫電改展示館・愛媛県南宇和郡愛南町】

日本で唯一残存する紫電改は旧海軍の最も優れた戦闘機でした。
昭和54年に久良湾の海底40メートルより引き揚げられここの展示館
に保存されています。

















【大刀洗平和記念館・福岡県朝倉郡筑前】


東洋一を誇つた大刀洗飛行場を中心とする一大軍都がこの地域に存在しました。
昭和20年3月米軍の大空襲により壊滅的な被害をうけました。





零戦三二型は合計343機しか製造されていない機種で
世界に現存する三二型の唯一の機体です。





三二型は主翼の先端が直線的にカットされており、他の型に比べて
主翼が短いのが特徴です。栄一二型エンジンも展示されていました。





九七式戦闘機は、陸軍で最も多く使用された機種です。


この九七式の機体は平成8年(1996年)9月10日に
博多湾の水深3mの海底から引き揚げられたものです。
操縦席から見つかった遺留品から渡辺利廣少尉の機体と
判明しました。九七式戦闘機は通算3386機生産されましたが、
現存する機体は唯一この機体のみです。



飛行第四聯隊の門柱


監的壕:隊員はこの中に入り飛行機の射撃訓練を見ていました。


菊池武光像には空襲の際の弾痕があります。





【知覧特攻平和記念館・鹿児島県川辺郡知覧】


平成17年6月元戦艦大和の乗組員F.T.殿と一緒に
知覧特攻平和祈念館を訪問した時の記念写真です。



特攻隊員もこの開聞岳(薩摩富士)を
みながら出撃して行きました。

















【万世特攻平和祈念館・鹿児島県南さつま市】

万世基地は陸軍の航空基地である知覧の
補助飛行場として昭和十八年から翌年にかけて
急造され,わずか四ケ月しか使用されなかった
幻の特攻基地であります。





万世基地の営門跡。






今も残る門柱には,おそらく基地の表札が
かかっていたであろう金具の跡もありました。





子犬を抱いた十七歳の第七十二振武隊荒木幸雄伍長も
ここの万世特攻基地から飛び立ちました。



【零式三座水上偵察機】
吹上浜沖の海中から引き上げられました。
1階に展示してありますこの機体のみ
館員に許可を頂き撮影しました。











この付近に滑走路がありました。



現在も残っている側溝跡


【鹿屋航空基地史料館・鹿児島県鹿屋市】





【零式艦上攻撃機五二型】








【ニ式大型飛行艇】二式大艇が量産された昭和十七年は,
皇紀ニ六百ニ年にあたり末尾のニを用いて正式名称が付けられた。









【特攻隊戦没者慰霊塔】平均年齢21歳という若さで
鹿屋航空基地を飛び立った特攻隊員908名の御霊が祀られています。




【西郷隆盛関係】

私は西郷南洲先生遺訓からの「敬天愛人」の遺訓が好きです。

西郷隆盛生誕の地




西郷隆盛終焉の地




【陸軍墓地・広島比治山】

明治5年,広島鎮台(後の旧陸軍第5師団)が設置される
前年に,この地比治山に設置されました。その後,明治10年
の西南戦争から昭和16年〜昭和20年の太平洋戦争まで,
日本国内や海外において戦争により亡くなった多くの人々
が葬られています。墓地は,昭和19年に墓石の整理統合
のため,その大部分が移設等集約されましたが,原子爆弾
の投下により多大な被害を受けました。その後,終戦後の
混乱期を経て、多くの人々の奉仕活動により今日の姿に再建
されました。











【乃木神社・京都市伏見区】

明治天皇に殉死された乃木希典大将を祀っています。
近郊に明治天皇桃山御陵があります。


【乃木将軍記念館】柳樹房にあった第三軍司令部を
京都伏見区に移築したものです。













日露戦争日本海海戦に於いて活躍した
軍艦「吾妻」の主錨です。



【陸奥記念館・山口県周防大島町】

昭和18年6月8日正午頃,北緯33度58分,東経132度18分に
位置する柱島泊地の旗艦ブイに繋留中の戦艦「陸奥」は大爆発を起こして
艦体を分断しまたたく間に沈没しました。館内には殉職将兵1,121名の
遺影や遺品および「陸奥」の建造から沈没までの資料が展示してあります。
吉村昭著「陸奥爆沈」に詳しく記載されています。



「艦首錨と錨鎖」これは右舷錨です。昭和18年沈没時には
収錨されていました。







沈没地点
北緯33度58分,東経132度18分)






【陸奥記念公園からの展望】右端は柱島です。その左の島は端島(はしま)です。
大島陸奥記念公園から3kmの沖合いで「陸奥」が沈没しました。





























【回天記念館・山口県大津島】
                        (おおづしま)

回天記念館の門から入り口まで145の石碑があります。
ひとつひとつに回天特攻により散華された将兵の氏名と
出身地が記名されていました。






回天模型




展示コーナー


展示コーナー



展示コーナー



回天の潜望鏡


回天上部ハッチ


天を回らし,戦局を好転させるという願いを込めて黒木大尉と仁科中尉が
特攻兵器「回天」を考案しました。







回天記念館までの途中に約1,75m程の高さの塀は
当時のままで残っていました。


瀬戸内海の穏やかな海に浮かんでいるような「回天発射訓練基地跡」


トンネルを貫けると九三式魚雷発射場跡(回天の訓練のための発射基地)に到達します。
地面にはトロッコの線路跡が見られます。




魚雷発射試験場跡


九三式酸素魚雷発射口


回天昇降用クレーンの土台跡







危険物貯藏庫跡


【記念艦「三笠」・神奈川県横須賀市】


指令長官東郷平八郎と記念艦「三笠」





前部30センチ主砲




本日晴天ナレド波高シ皇国ノ荒廃コノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ



記念艦三笠の保存には大変困難がありました。
この甲板の部分は当時のままです。



館内には資料が展示してあります。




【八甲田山雪中行軍遭難資料館・青森市幸畑】

明治35年1月23日,陸軍歩兵第5連隊山口少佐以下210名の将兵は
青森から三本木への一泊二日の予定で雪中行軍に出かけました。
当日は史上最悪な気候の為,遭難しました。生存者はただの17名でしたが
6名は重い凍傷で衛戍病院で亡くなりました。後藤房之助伍長は明治35年1月27日
豪雪の中仮死状態で捜索隊の手により発見され,後に銅像が建てられました。
又最後の生き残りの方は小原忠三郎伍長でしたが昭和45年に91歳でなくなられました。









幸畑墓地には将兵199名の英霊が眠っています。








後藤房之助伍長の銅像です。陸軍歩兵第5連隊雪中行軍遭難記念像で
明治37年10月当時の寺内陸軍大臣等が発起人となり造られた銅像です。








雪の進軍 氷をふんで   どこが河やら 道さえ知らず  
馬は斃れる 捨ててもおけず   此処は何処ぞ 皆敵の国   
ままよ大胆 一服やれば   頼みすくなや 煙草が二本

焼かぬ乾物に半煮え飯に   なまじ生命の ある其のうちは   
こらえきれない 寒さの焚火   煙いはずだよ 生木が燻る   
渋い顔して 巧名談   「すい」というのは 梅干一つ

着のみ着のまま 気楽なふしど   背嚢枕に 外套かぶりゃ   
背の温みで 雪解けかかる 夜具の黍殻 シッポリ濡れて   
結びかねたる 露営の夢を   月は冷たく 顔覗きこむ

命捧げて 出てきた身ゆえ   死ぬ覚悟でとつかんすれど   
武運拙なく 討死せねば 義理にからめた じゅつぺい真綿   
そろりそろりと 頸締めかかる   どうせ生かして 還さぬ積り 
【雪の進軍】

Guam , Saipan での慰霊






















【沖縄・旧海軍司令部壕】

旧海軍司令部壕は日本海軍沖縄方面根拠地隊司令部のあったところで,
司令官大田實少将他多数の将兵が,昭和20年6月13日午前1時頃,この場所において
壮烈な最期を遂げました。司令官室には,大田実司令官の辞世の句があざやかに残っていました。
辞世の句「身はたとへ沖縄の邊に朽つるとも守り遂ぐべし大和根性は」合掌!!



司令官室・作戦室に近いこの部屋は幕僚が手榴弾で自決した時の
破片の跡がくっきりと残っていました。





【ひめゆりの塔】





【首里城内の旧陸軍司令部壕】





【旧海軍司令部壕参観記念文鎮】

この壕は太平洋戦争中海軍部隊の沖縄方面根拠地隊司令部があった所で
昭和ニ十年六月十三日午前一時,戦い利あらず遂に大田實司令官は多数の将兵と共に
壕内で壮烈な最期を遂げ,太平洋戦争中最も悲惨を極めた沖縄戦における海軍部隊の組織的戦闘が
終った場所であります。壕には鍬や,つるはしで掘った司令官室,作戦室等があり
当時の姿をありありと偲ぶことができるとともに世界の恒久平和を祈念するにふさわしい場所であります。


「身はたとへ沖縄の邊に朽つるとも守り遂ぐべし大和島根は」 
沖縄方面根拠地隊司令官 海軍中将 大田實

















【予科練霞ヶ浦航空隊跡・茨城県稲敷阿見町】



若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨 
今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く
燃える元気な予科練の 腕はくろがね心は火玉 
さつと巣立てば荒海越えて 行くぞ敵陣なぐり込み
仰ぐ先輩予科練の 手柄聴くたび血潮が疼く 
ぐんと練れ練れ攻撃精神 大和魂にゃ敵は無い
生命惜しまぬ予科練の 意気の翼は勝利の翼
 見事轟沈した敵艦を 母へ写真で送りたい
【若鷲の歌】



【雄翔館正面】


【掩体壕の遺跡・滋賀県東近江市】

敗戦に近ずき本土空襲が激しくなり戦闘機を空襲から守る為に
コンクリートで壕を造り更に上空からの視界を隠蔽する目的で
上部は土で覆い草木が植えられました。






陸軍八日市飛行場の正門


【江田島海軍兵学校・広島県安芸郡】

桜花咲く緑の風に 軽く吹かれて校門入れば 俺も今日から生徒さん
 腰の短剣伊達つ゛くり われら兵学校の三勇士
夢も束の間夜嵐吹けば 姓名申告凄面揃い 腰のふるえを何としょう
 お国なまりがうらめしや われら兵学校の三勇士
寒風肌さす古鷹おろし 顔で笑って心で泣いて 鍛え鍛えしこのクリュー
 休暇みやげは尻のたこ われら兵学校の三勇士
雨の降る日も風吹く夜も おもてはなして チルラーをとれば 行方定めぬ波まくら
 赤道越ゆれば乱舞場 われら兵学校の三勇士
【兵学校の三勇士】


大講堂


講堂内




幹部候補生学校庁舎



戦艦陸奥の主砲













第1術科学校から古鷹山を眺める


古鷹山への登山口
海軍兵学校の生徒は訓練で
ここから山頂を目指しました。



山頂付近


古鷹山山頂




五省(ごせい)


山頂より広島湾を眺める


















【戦艦大和の主砲弾】







【海軍兵学校五省(ごせい)】

一,至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか
一,言行に恥つ゛る勿(な)かりしか
一,気力に欠くる勿(な)かりしか
一,努力に憾(うら)み勿(な)かりしか
一,不精に亘(わた)る勿(な)かりしか


【男の修行】

苦しいこともあるだろう
云い度いこともあるだろう
不満なこともあるだろう
腹のたつこともあるだろう
泣き度いこともあるだろう
これらをじっと
こらえてゆくのが
男の修行である

山本五十六











 
     
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