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【軍医中尉肥田舜太郎と軍医少尉の60年ぶりの再会】

昭和20年08月06日肥田先生は広島市の郊外6kmの戸坂村で患者を診察中に被爆,一方軍医少尉は爆心地より800mに位置した陸軍病院内で被爆しました。両軍医は同じ広島陸軍病院所属の軍医で被爆しながらも戸坂国民学校に辿りつきました。軍医少尉の原爆体験記で「我は無我夢中にて,傷つき疲れたる身を牛歩の如く運び,戸坂国民学校に辿り着けり。時既に午後なり。この時始めて臓腑を搾るが如き烈しき悪心,嘔吐に襲はれたるも,吐血をみず,夜に入りて止む。校舎の内外には避難者満つ。幸にも命を全うせる軍医,期せずして五名集まる。皆隊を異にして一面識なし。各自,疲労困憊の身を冒して,軍官民の診療を始む。」と合計5名の軍医がお互いに面識もなく医療活動に従事したと記載があり又肥田先生の被爆軍医の証言【広島の消えた日】の中で「乾いた土の上は見る限り,足の踏み場もない負傷者の群れだった。屋根をとばされて壊れた校舎の残骸が校庭に散乱する(戸坂国民)学校も無惨だった,それにも増して眼を奪うのは大地に折り重なった肉塊の数である。・・・・・・中略・・・・・・。ほとんどが火傷に外傷を合併していた。衛生兵と婦人会の何人かが油をいれたバケツを片手にボロ切れに油ををひたして,横たわっている患者の火傷にぬりつけて歩いた。誰の智恵なのか大きな木の葉をぬらして創面を覆う者もいた。私も加わって四人の軍医は応急処置に没頭した。数日前に要員だけが着任した戸坂分院には医療機器も薬品も一部しか届いていなかった。」との記述があり両文章から戸坂国民学校に両軍医は集まり医療活動を行っていたと私は判断しました。当時の筆舌につくし難い状況下ではお互いに自分を紹介する時間もなかったと推測します。両軍医は同じ広島陸軍病院に属しながら肥田軍医は第一陸軍病院検査科又軍医少尉は第二陸軍病院内科でしたので同じ陸軍病院所属でありながらお互いに面識はありませんでした。私が両軍医を平成17年12月4日に引き合わせ60年ぶりの再会となりました。1時間足らずの間でしたが,両軍医とも60年前のことを話し合っていました。別れの際,肥田先生は「死ぬなよ!頑張れ」と力強く軍医少尉と握手をされたのが印象に残りました。






被爆軍医肥田舜太郎著「広島の消えた日」

その瞬間である。かっ,とあたりが真白にくらんで焔のあつさが顔と腕をふいた。注射器をどうしたか分らない。両手で眼を覆って平蜘蛛のようにその場にはいつくばった。その時,広島の街並をさえぎる丘の連りの上に指輪を横たえたような真赤な大きな火の輪が浮かんだ。と,その中心に突然,真白な雲の塊ができた。それはまたたく間に大きくなり火の輪の内側からおしひろげて,たちまちふくれあがった。

(付記)
広島第一陸軍病院(爆心より北へ0.5km)即死600名を含む死亡率:99.0%
広島第二陸軍病院(爆心より北へ1km)即死90名を含む死亡率:75.3%

廣島市内には医師(298名)歯科医師(152名)薬剤師(140名)看護婦(1780名)原爆炸裂後市周辺部の死傷を免れた医師28名歯科医師20名らは被爆直後から当局の指揮や命令もないまま負傷者の応急処置をおこなった。

【参考文献・論文】

●「広島の消えた日」:肥田舜太郎著・日中出版
●「内部被爆の脅威」:肥田舜太郎/鎌仲ひとみ著・ちくま新書
●「草の根は燃ゆ」・反核 欧州語りある記:肥田舜太郎著・双信舎
●「ヒロシマを生きのびて」:肥田舜太郎著・あけび書房
●「広島原爆戦災誌」第一巻,第ニ巻,第三巻,第四巻,第五巻:広島市
●「豊中市医師会雑誌」:1979年第18号
●「青蓮会報・京都府立医科大学学友会会報」平成18年4月30日第136号
●「原爆の落ちた日」:戦史研究会・文藝春秋
●「原爆三十年」:広島県の戦後史・広島県
●「原爆爆心地」:日本放送出版協会
●「地図中心」日本地図センター
●「ヒロシマ」:ジョン・ハーシー著・法政大学出版局
●「ヒロシマへの七時間・原爆を運んだ12人の記録」:ジョセフ,マークス著・日本経済新聞社
●「米軍資料・原爆投下報告書」東方出版
●「広島・長崎 原子爆弾の記録」:被爆の記録を贈る会発行
●「原子爆弾・開発から投下までの全記録」:翔泳社
●「広島・爆心地中島」新日本出版社
●「ヒロシマの記録」:中国新聞社
●「写真集・原爆を見つめる」:飯島宗一編 岩波書店
●「原子爆弾・広島長崎の写真と記録/仁科記念財団編纂」:光風社書店
●「原爆の記録・ヒロシマ」:中国新聞社
●「写真物語・あの日,広島と長崎で」平和博物館を創る会編
●「広島・長崎でなにが起ったのか/原爆の人体への影響」飯島宗一著:岩波ブックレッド
●「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」中条一雄著・三五館
●「被爆六十周年記念事業/旧・広島陸軍病院関係/原爆死歿者名簿」夾竹桃の会
●「被爆六十三周年記念事業/旧・広島陸軍病院関係/原爆死歿者名簿」夾竹桃の会
●「広島市における原子爆弾に関する調査」海軍大佐三井再男
●「呉鎮機密第三九六号・八月六日廣島空襲被害状況調査報告概要」呉鎮守府司令部
  『軍極秘』
●「昭和20年7月25日米軍撮影空中写真・広島上空」米国国立公文書館

「昭和20年8月8日米軍撮影空中写真・広島上空」米国国立公文書館
「広島県戦災史」第一法規出版株式会社
「私はヒロシマ・ナガサキに原爆を投下した/チャールズ・W・スウィーニー」:原書房
日清戦争期における広島の医療と看護:広島国際大学 千田武志



現在の広島市立戸坂(へさか)小学校です。戦前は戸坂国民学校と呼称されていました。
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【肥田舜太郎先生】 92歳
軍医として広島陸軍病院に赴任中に被爆。今年平成21年3月に医師を引退されるまでに6000名以上の被爆者を診察され,日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長を30年間勤められました。











原爆投下64年後の今年も肥田舜太郎先生は広島陸軍病院慰霊碑の広場に来られ黙祷を捧げられました。基町小学校の児童約60名を前に「古い医者が言つた事を君達は覚えておいてください。@戦争は絶対にしてはなりません。A原子爆弾は決して使つてはなりません。人類が滅亡します」と分かりやすく語られました。 【平成21年8月6日】

【肥田舜太郎先生】


広島陸軍病院慰霊碑の広場に参列されました。


大勢の新聞記者に囲まれてインタビューされておられました。


基町小学校の児童を前に核廃絶を語られました。





平成22年8月6日
まだ福島第一原発事故の7ヶ月前の広島陸軍病院慰霊碑の広場での
肥田先生の報道です。多数の報道陣が先生の取材をしていました。













平成23年8月6日広島陸軍病院原爆慰霊碑広場です。報道陣も
昨年より少ない人数でした。今までとは全く違い静かに慰霊ができました。









【広島の消えた日・肥田舜太郎著】


【ヒロシマを生きのびて・肥田舜太カ著】
肥田先生にサインして頂きました。


【内部被曝の脅威】
平成23年8月6日に広島陸軍病院原爆慰霊碑の広場で肥田先生にサインして頂きました。






肥田舜太郎先生が主張される内部被曝の影響については、学会そしてマスコミの多くの人々により誇大すぎると決め込んで肥田先生の意見を黙殺する方針がとられています。肥田先生におかれましては医師として6000名以上の被曝者を診察して来られた実績があり、医師として被爆体験を語られる人は64年間に及ぶ臨床経験豊富な肥田先生以外はもう誰一人としておられません。マスコミが偏見を持って事実を報道しないとなれば日本は発展途上の独裁国家と何も変わりない国となってしまいます。





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