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原爆体験記

昭和20年8月6日(月)
七時目覚む。快晴。営庭の樹梢既に蝉声盛なり。七時半警戒警報発令。少時にして解除。八時,例の如く,朝礼のため看護婦を部屋に集合せしむ。総員十五名整列を終りし頃,突如頭上に烈しき敵機の爆音を聞く。警報解除後何事ぞと皆,いぶかりつつ,天の一方に耳をそばだつ。正に其時,怪光一閃,飛電を遙に凌ぐ眼眩く光世遍く天地を覆ふ。是は容易の事に非ずと察し,一歩部屋を踏み出でんとせし時,一大轟音と共に,天井,四壁,瞬時に落下倒壊,忽ち,眼前暗黒となり,重圧は身躯四肢末端にで及び,微動すらなし得ず。嗚呼,俄然,我身は倒壊家屋の下深く埋もり了りしなり。暫し茫然自失,なす所を知らず。桎梏の状,死を予期するのみ。四辺,げきとして声な既に死の静寂あり。落莫たる孤独感が身に逼る。故山の両親,妻の事が慌しく脳裡を過る。過去30年に満たぬ我生涯は,果して何なりしか,何をなし得たるかを想ふ。


しかし人生,断ち難きは生の執着と死の恐怖なり。先に白熱光を放ちたる投下物は,必ずや発火物なるべく,家と共に除々に煙に侵され,寸一寸,尺一尺と生身を焼かるる苦痛を想像すれば,不安頓に萌し,焦慮更に甚しく,恐怖の情其極に達す。死力をつくして,ここを脱せんと図る。宛も蝉のもぬくが如く,四肢末端より自由を獲んと力む。悪戦苦闘,幾刻を経たるにや,遂に全身の自由を獲たり。これに勇を鼓して更に上に向ふ。時に上方にわずか微光を認む。暗夜に燈火,歓喜言ふべからず。壊れし壁,倒れし梁の交錯する間を縫ひ,釘に刺され硝子片に傷つき漸くにして瓦礫廃材の堆積より逃る。


しかし外界の情景,全く意表に出つ゛。壊滅せしは我十五病棟のみと信じたるに,一望の間,家屋尽く倒れ,草木皆摧く。東望すれば,廣島城天守閣の雄姿も既に忽焉として其影を没せり。案に違はず,火災随所に発し,遠く三滝,二葉の山々に亘る。我病棟の一部また火を発せり。井上婦長,山下看護婦我姿を認めて急ぎ走り来りて,倶に共に生ありしを喜ぶ。皆満身創痍,鮮血にまみれ,看衣完膚なきまでに裂く。山下看護婦は左眼の損傷甚しく,けだし失明は免るまじ。他の看護婦の姿を求むるも空しく,一同暗然たり。逃れ出でたる患者,又三々五々集り来る。この間にも,火勢はその強度と速度とを増し,四方より襲ひ来る。一大旋風起り,火焔,煤煙相乱れて渦を巻き,火粉,粉々として頭上にそそぎ,熱気面を払う。倒壊家屋の下には,尚生存者多数あるものの如く,呻吟絶叫の声烈しきも,土塊廃木の除去は少数の人力のよく成し得る所に非ず。加ふるに水道よりは一滴の水も出でず,万策尽く。火は愈々近く全身炒らるるが如くこのままにては坐して死を待つのみ。屋下の生存者に心を残しつつ四面を囲繞する猛火の一角に漸く活路を見出して,一同避難を始む。途中,頽垣墜瓦に道を阻れつつ辛うじて太田川川原に出つ゛。川原の上,避難者溢る。斉しく道を北にとる。宛然三途川を渡る亡者の群もかくやと偲ばる。或は家族相呼び,伴侶相引き,相扶け,背に負ふ。或は夢遊病の如く,たたずみ,よろめく。或は狂人の如く,泣き,叫ぶ。或は吐血して倒れ伏してそのまま動かず。或は流に飲まんとて水際にて力尽きて死するあり,或は地上に輾転反側し,匍匐し,蹲踞し,苦悶の状,千姿万態,白沙上血流れて死屍累々たり。其酸鼻,其悲惨,我禿筆のよく尽す所に非ず。都下一切を焼く劫火の黒煙は天に沖し,陽光,ために色赤く,山河の景物,惨淡として猶黄昏に入るがごとし。我は無我夢中にて,傷つき疲れたる身を牛歩の如く運び,戸坂国民学校に辿り着けり。時既に午後なり。この時始めて臓腑を搾るが如き烈しき悪心,嘔吐に襲はれたるも,吐血をみず,夜に入りて止む。校舎の内外には避難者満つ。幸にも命を全うせる軍医,期せずして五名集る。皆隊を異にして一面識なし。各自,疲労困憊身を冒して,軍官民の診療を始む。大部分は火傷にして,一部は外傷なり。強烈なる光に晒されし部分は髪焼け,皮爛れ,肉露る。全身赤銅色に腫脹するもの多く,其貌状,眼を蔽はしむ。診療と称するも,診ありて療なし。包帯一巻,薬剤半錠すらなきを奈何せん。



僅かに近郷より恵まれし食油にメリケン粉を混じて患部に塗布し水を与ふるに止るのみ。深更に至りて死する者数を知らず。多くは無辜の民衆なり。干戈を操る者,また敵の干戈に倒れる。これ素より恨むことなし。されど戦士,非戦士を分たず,爆撃を加へて,長幼男女,無抵抗,無害の民衆を一挙に大量殺戮の暴を敢て擅にす。残虐これに過ぐるものなく,冷酷非道,惨酷無残の所業,ここに極まる。夜,某軍医大尉曰く,「これ独り,英米の罪に非ざるなり。戦の罪なり。史書を繙かば,古今東西,かかる例は枚挙するに遑あらず。事遂にここに至る。日本敗るるの日も又近きにあらん」と。満座憮然たり。




写真は米軍の資料から引用しました。写真の軍医は軍医少尉本人ではありません。文面は文語体になっていますが,軍医少尉が入営当時,病床日誌,病歴書,病況書等の記述は全部文語体でなされ文語体で日記が書かれていましたのでそのままで記載しました。








                                                


【広島陸軍病院江波分院での写真】                      【TOP】